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症状別アドバイス集

普通神経症の部屋・2002年

悩みと注意の関係 '02.12

Moさんが次のようなことにとらわれて悩んでいます。「・・今、私が悩んでいることは、「とらわれ」です。本当にばかばかしくって自分でもあきれてしまいますが、そのとらわれが、「まばたき」であったり、行動するときに「数えてしまう」ことであったり、くだらないことばっかりです。・・・それがゆえに、いつも調子がいい状態を続けたい、、そのためには、この嫌な気分を頭ではなく、心から受け入れることが必要と考えています、、、あと一歩、なんとか受け入れることへの知恵をかしてください」と書き込みます。
Moさんは以前にパニック障害に悩んでいましたが、「なるようにしかならない」と開き直ったら、よくなりました。Maさんの助言は次の通りです。観察のすすめですが、今までMoさんのやっていたことと違った方向です。「きっと三歳になられる娘さんは可愛いおちゃめなお嬢さんでしょうね。同じ観察をされるのなら、どうか娘さんの観察をして上げてください。自分以外の事物を観察してください。観察することは私達神経質者は大の得意技です。なぜ自分を観察してしまうかというわけは分かり切ったことです。自分が好きで好きで堪らないからです。しかしそれが禍してしまっては何にもなりませんね。健康な方をよく観察してください。ちっとも自分のことは観察しないで他の事物ばかりを観察されておられます。そして興味を示すものには直ぐに手を出します。このように自己観察から他者観察へ方向を変えていってみてください。あるがままとは自然な周りの現象を受け入れていくことです」
私も同感です。私たちがとらわれているということは、自分自身に注意が向き、それに一喜一憂しているのです。少々自己中心的なのです。外に注意を向けて、そこでの自分の心の反応を大切にすること、そして気づいたことに手を出していくこと、です。そしてその前に、自分の不快な感情をそのままに、受け入れていく覚悟も大切です。そこから心は自然に外に向かった動き出すのです。

子供にとらわれてしまうこと '02.11

Peさんが、「小2の娘が先週から学校に行かないと言い出しました」と悩んで書き込みをしています。今のところは学校の先生が、学校に連れていってくれているそうです。このような問題について、Peさんは「『強い人間にしなければいけない』という考えや『たまたまその環境は合わないだけで、その子にとってより良い環境をつくってやれば、力を発揮する』という考えなど様々な考え方があり、どうしたらいいのか悩む毎日です」といいます。少子化の時代、世の母親の心配はつきません。
Maさんのお子さんも小学校のときに不登校になったそうです。Maさんの経 験では「先生とも話し合いましたが、妙に意見が一致し、大人の都合で無理強いすることだけは避けようと了解しました。冷や冷やした一週間でしたが、家でお 兄ちゃんが帰ってくるまで独りでいるのが寂しいのかやがて登校するようにもなりました」とのことでした。そしてその後も不登校の原因についてはあれこれと探索しなかったようです。森田療法では不問的態度というものがあります。治療者が症状を取り上げないでそしらぬ振りをして放っておくことです。べつに意地悪をしているわけではありません。不登校を症状とすると、それについてあれこれ探索しないこと、そして「今ここで」できることについて注意をむけるように促す、ということになろうかと思います。Maさんの不問的態度の裏にその子に対する信頼があったことはいうまでもありません。
結局、このような子供の危機には、親はまず子供の成長を信じて時を待つこと、が肝心かと思います。Peさんのお子さんもしばらくすると学校に行くようになったそうです。子供は挫折しながら成長していくものです、またその力を信じたいものです。

薬を止めることとは  '02.10

Maさんが私のコメントについて紹介してくれています。このフォーラムに 関わってもう4年になりました!!。月日の経つのは早いものです。このフォーラムで皆さんの悩みを聞く(読む)ことは私にとって勉強になります。またMaさんを始め、多くの人たちの反応にも、なるほど!と感心することしきりです。
Peさんが薬について書き込んでいます。主治医は「薬を飲まないで不安 になるより、薬を飲んででも行動的に過ごす方がいい。」と言います。私もそう思いますが、止めれるものなら早く止めたいです。薬を止めても不安感を持たずに行動的に過ごせる日が早く来てほしいです」Maさんは「・・・実は薬が抜けただけで不安感もありますし、そう行動的に なれない時もあります。丁度、不安の最中では夢に怯えているような状況で元気になったらという憧れの夢を見たいものです。森田療法はそんな夢から覚め現実 に即した苦は苦、楽は楽というそのままを味あうごくごく一般的な生活を過ごしております。」と自分の経験を述べます。
Saさんは「・・・基本的には薬を飲む。けど自分で必要ないなぁと思ったらやめる。最初からやめようなんて考えないでください。・・・そして飲んでも飲まなくてもいいなら今日はやめとこか‥そして何時の間にかそういえば薬飲んで ないなぁ最近‥そういえば薬あったよな、どこいったけ‥と進歩していきますよ。とにかく「戦わない」キーワードはこれかな。」といいます。
また薬に関連したことではないですが、Thさんは「・・・長々と書きましたが、神経症に苦しんでいる人間が医療を利用するときは、検査と薬だけだと思います。書痙なり心臓神経症なりそれぞれの症状すべてを医者が体験しているわけではありません。書痙になったことのない医者は、書痙がどのように治癒していくのか知らないのです。その方法はそれぞれの症状にかかっている本人が、もっともよく知っているのです」と書き込みます。
私も皆さんの意見に同感です。薬は必要な時には服用し、心の態度がしっかりとしてきたら、自然に止められるもの、と考えられればよいでしょう。その人の 人生にとって薬を飲む、飲まないでなく、自分としていかに生きるかが重要です。そして無理のない回復とは、自分自身がただ素直に事実を見ていけば自ずか らわかるものだと思います。

病気の人に森田療法は無意味ですか  '02.09

Bさんは、病気の人に森田療法は無意味ですか、と問いかけます。自分は不治の病にかかっており、どうしても自分を受け入れることが出来ないと、苦しんでいます。つまりBさんは自分だけが特殊な病にかかっており、同じ苦しみを持っている人がいないのではないか、と考えているようです。
この苦しみは自分の体の兆候をヒポコンドリー性に解釈し、それにとらわれているためではないかと私には思われます。体の感覚と自分の注意とが悪循環を形成し、このBさんの苦しみを作り上げているのではないでしょうか。そしてこのように苦しんでいるのは自分だけだ、と決めつけ、さらにつらい思いをしているのではないでしょうか。Mさん、Kさんが入院森田療法の選択も含めていろいろアドバイスをします。
Bさんは「・・僕は7月末までの一年間ひきこもっていました。そしてここ一ヶ月仕事を続けることが出来ました。途中で職場から逃げたりもしましたが、なんとかやっています。そういうわけで、じょじょに仕事のやりがいや達成感を味わう感覚を取り戻しつつあります。・・28歳という年で完璧に病気に向き合うため入院し治療するのがいいか、一生症状を気にして仕事をがんばるのがいいのか悩みます」と書き込みます。Mさんもさらに助言するように、「一生症状を気にして仕事をがんばる」つもりなら、私もまず「生活の発見会」に参加しながら、自覚を深めていくことをすすめまず。まず出来ることをやって みること、そしてその経験をしっかりと自分のものとすることが大切だと思います。

弱さを受け入れるしなやかな強さについて  '02.08

Hさんが頻尿恐怖、手及び体の震え恐怖の終わった理由について書いてあります。彼は会社での研修中に、頻尿恐怖、震え恐怖に陥ってしまいました。そして一番つらかったことは、「トイレに行かせて下さい」と講師に言えないことでした。そしてこの症状を周囲の人にさとられないようにしてさらに事態が悪化いたようでした。今でも頻尿もあり、手も震えますが、そのことを恐怖することはあまりないようです。それは彼の自覚では「その理由は虚勢をはった自分を捨ててしまったからです。・・・残された道は、虚勢を捨て、自然の弱いところもある自分になることでした。」
Mさんも自分の体験について「私も昔は多くの先輩から『M君はもっと弱くなればよい』と言われ、こんなに苦しんでいるのにこんなに弱い存在なのにこれ以上弱くなれとは一体どういうつもりなのかと合点がいきませんでした。後にして思えば、『弱くなる』は『自分を知る』ということにつながり、謙虚さとして現れこのことが返って周りの者から『最近、君は強くなったなあ』と実践を通していわれるようになるといった具合です。」と述べています。
そうなのです。私たちはしばしばこのように弱さを認められず、それを受け入れられず、不自然な完全さ、強さを求めます。それが私たちの苦悩の元なのです。私たちが成長し、しなやかな強さを身につけるには、弱さを事実として認め、それを受け入れるところから始まります。

不安を打ち消そうとするほど不安は募る  '02.07

SOさんが、とても興味ある書き込みをしています。「疾病恐怖のある 私は自分の恐れる病気についてこれまで調べた資料・メモ書きなどがたくさんあります。これまで何かにつけ思い出しては資料を開き、再度読み、場合によっては更に不安になって調べ、結局調べれば調べるほど、不安が増すという悪循環を 繰り返してきました」。
これに対してMさんは「私も若い頃は随分あなたが繰り返す行為をして参りました。あなたがこの先、自由に強迫行為を中断できるようになってきますと、やがて事実は事実としても追求も可能となってきます。
・・・あくまでも、「本来、今、なすべきをなす。」この一点に絞って生活を送れば、自由に確認すべき時には確認して、そしてまたそのことから速やかに離れることが可能になるものです」と助言します。まさにその通りです。つまりその確認行為が不安を打ち消す行為である以上、不安が不安を呼びます。さらにSAさんが「あきらめること、降参すること」の大切さを助言します。「自分は治らないんだから諦め降参して、そんな自分が家族に、職場に、社会にこんなことができるようになった‥その時が神経質賞症の完全な克服だと思っています」そうです。症状を取ることを諦めたときに私たちの心は、とらわれから脱します。不安を打ち消そうとしなくなって初めて、不安を受け入れ放っておけるようになるのです。それとともに心が外に向き、本来の働きを取り戻すのです。

体の症状と神経質の関係  '02.06

Tさんが、「昔は強迫だったのですが、今は全般的疲労感、眠気、注意集中困難、無気力に悩んでいます。・・専門医には反応性の抑うつ状態と言われ、薬を飲んである程度軽快しましたが、どうもこのまま廃人になりそうな嫌な感じがしています。まだ25なのに・・・」と書き込んでいます。
神経症の症状はTさんのように変化することもありますが、その根っこの「とらわれる」と いうことには変わりありません。体の調子にとらわれ、これさえなければ、とどうしても嘆いてしまいます。とくにTさんのような完全主義者にとって、体の不調はいやなもので、それを完全に取り除こうとしがちです。そこから「とわわれ」が始まるのです。Mさんもいうように、Tさんの「よりよく生きたい」という 欲望に視点を当てて、目の前のできることに一つ一つ取り組んでいくことが肝心です。

治ることとは  '02.05

多くの人は自分の問題が森田療法で解決するのだろうか、どうしたら治るのだろうかと悩んでいます。当然のことですが。Kさんが、「経症を克服した方に質問なのですが、症状のまっただなかにあった時、かならず症状が消え直るという確信をもってましたか、それとも、一生直らないだろうという「あきらめ」の状態でしたか」と聞いています。Mさんは「私の場合は、症状が治るという確信もこのまま直らないだろうという「あきらめ」の状態もありました。しかし、森田療法の本を一冊二冊と読み進み、まだまだ読んでみたいなという気持ちが沸いてきて少し光が差していきました。学び初めて約3年間、その間に相当数の書籍を読み大切な箇所を書き写し、生活の発見会の集談会で多くの方々と学んで多くのことをつかみました。お陰様で現在52歳になりますが、なぜあのように若いとき苦しんできたのか不思議な思いがしています。あなたもきっと大丈夫ですから頑張ってくださいね」と返事を書きます。
Mさんの言葉を私流に理解すると、治るというプロセスに入るには「治すことをあきらめること」、「持ちこたえること」が肝要と考えます。治すことをあきらめる、とは症状を事実と認め、それは自分の気持ちではあれこれ出来ないもの、とあきらめる心の態度です。そして何とか症状を持ちながら、持ちこたえていけば、いずれ自己の生の欲望が現実の生きることへと向かっていきます。この段階がつらいのですが、これを持ちこたえるしかない、と覚悟が決まれば、自ずから道が開けます。

とらわれとは  '02.04

Bさんがあがり症で悩んでいます。彼女は「学生の時、本読みで声が震えて、手も震え、大変はずかしい思いをしてきました。それと対人関係では、3人 以上になると仲間意識が強く、自分以外の2人しかわからない話をされるなど、すごく不安や怒りをもつかなりの自己中心人間です」と自分の状態を述べて います。
Tさんは頻尿恐怖で悩んでいます。彼は「絶えず尿の事を考えて、考えれば考えるほど尿意が増し、トイレに何度も行って、そのうち実際には尿が溜まっ ていないので、ほとんど尿が出ることがなく、その残尿感がずっと残ってしまい、辛い状態が続きます。このような状態を繰り返しているうちに、日によっては、軽い鬱状態になるようになりました」と書き込みます。
  2人の悩みはあがり症と頻尿恐怖とずいぶん違うようですが、その共通するものは何でしょうか。「とわられ」です。Bさんは人前での自分の心身の反応に対して、こうあってはならない、と考えているようです。そのためにそれを 何とかしなくては、そのような心身の反応を取り除かなくては、と思えば思うほど人前での心身の反応に注意が向き、それしか考えられない状態となります。それが自然な心身の反応としてもです!
Tさんが自分で正確に記述しているように、絶えず尿のことを考えて、つまりそれにとらわれてそれしか考えられない状態となります。これがとらわれた状 態で、症状の種類よりもこのことが問題なのです。
とらわれの打破は、
1)その症状、さらにはその背後にある不安をしっかりと 見つめ、それを受け止めていくこと、
2)本来の生きかた、つまり症状の背後に 見え隠れする本来の生の欲望を発見し、それを発揮すること、が重要です。

私たちは自分の感情を操作できるのか  '02.03

Aさんが孤独恐怖について悩んでいます。お父さんを亡くしてから、強い不安と孤独感に襲われることがあるようです。Bさんは極度のあがり症で悩んでいます。Cさんは元気で前向きだったのに、自分に自信がなくなり、今は頑張るぞという感情のなくなってしまいました。そして回復に焦り、一人となるとなんとなく物悲しくもなってきます。
Dさんがいうように、私たちの感情は本来自然なもので操作できるものではありません。さまざまにゆれる感情をそのままに受け止めながら、目の前のできることに取り組んでいくことが大切だと思います。不安がない日がよい日でなく、自分なりに踏み込むこととそこでの生きているという充実感が大切なのです。森田ではよくいうことですが、私たちの感情はどうにも操作はできないが、行動だけは6−7割は自分の責任で何とかなるものです。そしてできないことをやろうとする、つまり感情を操作しようとすると、それが悪循環を作るのです。

不安に終わりがあるのか  '02.02

Aさんが、「Endless 不安?」という見出しのもとに次のような 書き込みをしています。Aさんは、疾病恐怖があり、昨今の狂牛病のニュー スにはそれこそ終わりなき不安を抱かせるようです。Bさんの家族もあまり牛肉 を食べなくなったようです。実はわたくしの所もそうですが(笑い)
私たちがよりよい生活を望み、よりよい人生を望む以上、終わりなき不安はつきも のです。そしてこのような私たちの本来の生きる欲望をしっかりと自覚し、そしてそ れに伴う不安をしっかりと見つめ、生かしていくことが肝要です。それをあってはな らないものと考えるときに私たちの「とらわれ」が始まるのです。
食に対する不安は私たちの生きる欲望から考えれば当然のことですよね。この不安 を生かすことが私たちの食生活をさらによくしていける原動力になるのではないで しょうか。

とらわれること  '02.01

Aさん、Bさん、Cさん、Dさんがさまざまな悩みを書き込んでいます。しかしその悩みにはある共通性がありそうです。それが「とらわれ」です。そのとらわれに気づくことがわたくしは悩みの解決の第一歩であると考えています。ここではAさんの悩みを例に説明しましょう。
Aさんは中学2年の時に神経症を発症しました。「その神経症による不快な気分をなくすことに力を注いでましたが、症状は逆にひどくなり深みにはまって行きました。そして、精神的な葛藤をなくそうとすればするほどおかしくなって行きました。こんなになるのは自分の精神が弱いからだと思って精神を強くしようとしましたが逆効果でした。」悩みの逆説と注意と自分の不快と考える症状、身体感覚、不安、恐怖などの悪循環(とらわれ)がはっきりと見て取れます。悩みはそれを打ち消そう、なくそう、そこから逃げよう、と思えば思うほど強くなります。そしてその不快な症状にのみ注意が行きいわば視野狭窄状態に陥ります。そしてそのことしか考えられないのです。そして「この症状さえなければ・・・」と考え、わが身の不幸を嘆きます。それがまた不安、悩みの逆説、とらわれを強めるのです。この機制に気づくことがそこから脱出する第一歩なのです。

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