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症状別アドバイス集

普通神経症の部屋

「60%主義のすすめ」 '09.12

はじめまして、Oさん。文面を読ませていただきました。小学6年生のお子さんの学校行事など、保護者としてさぞかし大変であったと察します。Oさんは、歓談場面で頭痛、吐き気など身体的な苦痛を語られていますが、実際は人前での不安や緊張に悩まれていたのではないでしょうか? 「一年前から人付き合いに疲れ、仕事からも離れてまった」などの内容を見ても、長年Oさんが対人場面に苦労されているように思いました。知人に遭遇した際、軽い発作に見舞われることを考えれば、不安・緊張は決して軽いものではなかったはずです。そのため、まず精神科を受診し服薬で症状の軽減を図ったことは、適切な判断だったと思います。しかし、それだけで、Oさんの悩みが解決しないこともまた事実です。

Oさんは、心のどこかで「60%の自分は許せない」とも感じておられるようですね。そうだとすると、「常に人前で完璧でなければならない」という考えが、Oさんの心を縛っているように思いました。Oさんは「完璧」という言葉に対してどのようなイメージを持っていらっしゃるでしょうか? もしかしたら、「誰からも咎められない振る舞い」をイメージしていたのかもしれません。もしそうだとしたら、常に人前で戦々恐々とし、失敗の許されない心境に陥るのも当然であったでしょう。けれども、私は、Oさんにとって60%主義の進めが、あながち悪いものではないように思っています。というのも、「60%主義」という言葉の中に、「失敗から学ぶ」という内容が含まれているように考えるからです。もし、「失敗しないように」と力むことで、Oさんが新しい経験を遠のけていたとしたら、それこそOさんにとって一番悔しいことのように思います。「失敗をしない生き方」、「失敗から学ぶ息方」、両者とも苦しいものです。

しかし、Oさんにとって失敗から立て直す経験を積み重ねることで、Oさんの一番願っていただろう自信に繋がるのだと思います。時間のかかる作業ですが、是非頑張ってほしいと願っています。
(樋之口潤一郎)

「離人症と森田療法」 '09.11

Rさんは、数年前に受け入れがたいできごとがあり、環境が変わった今も離人症状があるとのことで、書き込みをされています。

離人症とは、「(自分が行なっていることが)自分がしているという実感がない」「外にあるものと自分の間にベールでもあるようで、ピンとこない」というように、自分や外界に対する実感が遠ざかってしまう症状を指します。さまざまな原因で起こりますが、ご本人にとってはとても苦しい症状です。
Rさんの離人症状がどういうものか、「できごと」にどう対処されるかは、信頼できる先生を受診したり相談機関などで相談されるのがよいでしょう。 ここでは、離人症と森田療法についての一般的な内容について書きたいと思います。

離人症の中でも森田療法により適しているのは、強気と弱気の両面性を持つ神経質性格を持つ人が、「感覚ははっきりしていなければならない」と構え、「実感を持つこと」に「とらわれて」いる場合といえるでしょう。
つまり、ふとしたときに自分の感覚に疑問を持ち、ひとつひとつの感覚に注意を向けてしまい、「こんな感覚ではなかったのではないか」「自分の感じ方は生き生きしていないのはないか」と悪循環に陥ってしまっている状況です。
そんなとき、「行動するためにははっきりさせなければ」と構えてしまうと、ますます悪循環に入ってしまいます。実感が持てないながらも、その日に行なった行動に目を向けていきましょう。行動そのものはできている、という場合は自分の行動に対する相手の反応?家事をしたときの家族の反応、仕事でやったこと、世話をした動物の反応、植物のゆっくりとした成長などー等の「事実」を積み重ねていきましょう。「今の自分では何をしても意味がない」という構えから、「今の自分でもできることがある」という事実へと視点を変えていくわけです(簡単なことではありませんが)。

日常の家事もままならない、と感じている場合は、朝起きて、パジャマから着替える、ということから始めてみてはいかがでしょうか。

(塩路理恵子)

「びくびくした時こそ「自分」を主役(主語)に動いてみる」 '09.10

Eさんは、いつも上司に怯えていることを悩んでおり、最近では、上司が他の社員よりも取りたててEさんのミスに激怒するため、心身の不調もきたしているとのことでした。こうした対人関係の問題は、私達の悩みのきっかけになりやすいものですが、身体の不調から欠勤することも多くなっているとすると、さぞ困惑されていることと思います。

Eさんは、上司に怯えてしまう、コミュニケーションが取れない・・・と書かれていましたが、上司の場合、日々接する相手ですし、仕事上の評価も伴うだけに、どうしても身構えてしまいがちですね。しかし、こうした怯えも、見方を変えてみると、それだけ仕事で評価されたいからこそ生じるものと言えます。おそらく、Eさんが気にも留めない立場の人であったら、その人の存在をそこまで意識することはないでしょう。

仕事において評価されたい、認められたいと考えるのは向上心の現れです。ただ、そうした気持ちが強ければ強いほど、相手が自分をどのように見ているかが気になり、態度や顔色を窺ってしまうものです。そうなれば、いつのまにか注意は自分の仕事から離れ、相手の思惑や周囲の反応へと拡散してしまうでしょう。その結果、目の前の仕事がおろそかになったり、気もそぞろになってしまうことがあるかもしれません。つまり、本当はしっかり仕事をしたいし、それを認めて欲しいという思いであったのが、上司の反応を気にするあまり、逆に仕事そのものに注意が向けられなくなってしまうわけです。あるいは、「また失敗して叱られたくない」「今度こそ・・・」と思えば思うほど、妙なところに力んだり、身構えてしまって、かえって凡ミスをしてしまうこともあるでしょう。これも同じ空回りですね。

Eさんは、自分に対してのみ上司が激怒すると書き込まれていらっしゃいますが、もしかすると、上司は失敗そのものよりも、上述したような姿勢(肝心なところに注意が向いていないように見受けられる姿勢)に苛立っているのかもしれません。あるいは、失敗や叱責を恐れるあまり、自分にだけそれが集中しているようにとらえてしまっている可能性もあるでしょう。 こうした悪循環にはまりこんでしまうと、なかなか抜け出すのが難しいものですね。では、どうしたらいいでしょうか?
当然、職場において上司の態度や思惑は気になるものです。ただその時に、行動の主役が自分ではなく、上司や同僚など周囲になってしまうことが問題なのです。言い換えれば、「私」がやるべきことを「私」が考えて動くのではなく、「周囲」によって「私」の行動が動かされて(振り回されて)しまっているということです。
相手が怒るかどうか、どのように怒るかはその相手にしかわからないことです。相手の機嫌を自分の思い通りにすることは不可能なのです。出来ることは相手を怒らせないようにすることではなく、自分の仕事に力を注ぐことだけです。よってそういう時には、まず目の前のことを一つ一つ丁寧にこなしてみましょう。周囲の視線や思惑がチラチラ気になったとしても、とりあえず地道に、丁寧に今やるべきことに取り組んでみる。動揺が激しい時ほど、仕事の中で単純作業に近いものをやってみると良いかもしれません。手を動かしているうちに、いつのまにか目前の仕事に注意が向かっていくでしょう。そうした姿勢をコツコツと続けているうちに、いずれその仕事ぶりが理解されるはず。激怒していた上司の評価も、その地道な姿勢を通して変化していくでしょう。評価は、後からついてくるものです。
(久保田幹子)

「頻嘔吐は恐れざるを得ず」 '09.9 

Kさんは、およそ20年間も嘔吐恐怖に悩まされているとのこと、長きにわたって大変苦労されてきたことと拝察します。

7歳の時の嘔吐は、よほどつらい体験だったのでしょうね。たしかに吐くことは苦しく、それが人前であればなおさら居たたまれないような感じがするものですし、また他人の吐しゃ物を見ただけでも不快感を覚えるものです。Kさんは「異常な恐怖」と書いていますが、そのような状況を嫌悪し恐れるのは、私たちにとってごく自然な感情です.コレラのような疫病の流行を繰り返し体験した人類にとって、嘔吐や吐しゃ物への嫌悪感は感染の危険を避けるという生存の目的に適っており、おそらくは遺伝子レベルで人間に刻み込まれた反応なのでしょう。ですから、Kさんは「なんとか治したい一心でこの10年間複数の医療機関を受診した」とのことですが、もしもそのような努力が「嘔吐を恐怖しないこと」を目標にしてきたのだとしたら、それは遺伝子への反逆であり,不可能への挑戦ということになります。

Kさんの場合,問題は「嘔吐を恐れる」こと自体ではなく、「7歳以降,自分が吐くことだけでなく他人の嘔吐も見ていない」というほどに、そのような状況を徹底的に避けてこられたところにあるようです。そのような回避の結果、減食によって体調を損なったり、外出を避けてやりたいことができない状態に陥ってしまったのでしたね。そこには、完璧主義が潜んでいるようです。つまり「もしも吐いてしまったら、人の嘔吐に出くわしてしまったら」という「万が一の可能性」をも排除したい,そうしなければならない、というパターンです。そのために、ちょうど感染を恐れて無菌室に閉じこもる(病気を恐れて病人の生活に陥る)ように、嘔吐を恐れて不自由な生活を余儀なくされてきたのです。しかも、避ければ避けるほど益々嘔吐への恐怖はつのっていったことでしょう。

Kさんは、こうした「回避行動」の結果に気付き、何とかそれを打開したいとの思いで、この体験フォーラムにたどり着かれたようです。もっとご自分の生活を充実させたい、食べたい物を食べ、出かけたいところに出かけたいという願いがつのってこられたのでしょうね。そのような欲求の高まりが行動の変化を導く原動力になります。今がチャンス!
  たしかに,嘔気をあるがままにする。というのはなかなか困難なことです。しかし、Kさんが行動しようとするときに感じるかもしれない胃のムカムカ感や圧迫感は、予期緊張の現れであって、通常は嘔吐に結びつくものではないことも覚えておいてください。
(中村 敬)

「頻尿に対する森田療法」 '09.8

過敏性膀胱炎でお悩みのAさん、さぞかしお辛いと思います。そんな中このホームページへようこそおいでくださいました。
過敏性膀胱炎へ至った過程があるかと思いますが森田療法がお役に立てるかどうかのポイントを示して参ります。過敏性膀胱炎へ発展した過程で、頻尿へとらわれてしまったことはありませんか?

森田療法の悩む人への理解の基本は「とらわれ」と呼ばれます。我々が生来備わっている排尿という「自然な」心身の反応を自分にとって不利な反応として決め付けていませんか?自然な尿意を催す反応を自己の欠点としてなんとか取り除きたいと望んでいませんか?もしこのような考えでいるとしたらこれを森田療法では「思想の矛盾」と呼んでいます。また尿のことにばかり注意が向きいわば視野狭窄になっていませんか?これを「精神交互作用」と呼んでいます。

「とらわれ」とはこの「思想の矛盾」と「精神交互作用」からなります。このように症状へ「とらわれ」身体のことを気にするということはそれだけ健康でありたいという欲求が強いことになります。神経症で悩んでいると自分を欠点があるととらえがちです。しかしそうではなく症状をなくそうとすることへせっかく備わっているエネルギーを症状除去のために使ってからまわりしてしまっているのです。この「とらわれ」のからくりを脱するにはどうしたら良いのでしょうか。
 まず生来備わっている排尿という自然な現象をコントロールしようとすることをやめることが大事です。そして排尿のことに視野狭窄になっているのであれば、排尿のこと以外のことへ目を向けるようにしてみましょう。
(舘野 歩)

「耳の不調について」 '09.7

Oさんは4年ほど前にうつ状態で休職するも、その後、復職を果たされていましたが、最近、耳の不調から不安が高まって、不安定な状況になり、それを一人で乗り切れるのか不安になっていらっしゃるようですね。詳しい情報がないので、分からない事も多いのですが、いくつかアドバイスさせていただきます。

第一に、耳の不調に関して、耳鼻科などで検査は受けていらっしゃるでしょうか。精神的なものが原因で、耳の不調となる事ももちろんありますが、メニエール病や突発性難聴などの耳鼻科的な病気も疑わなければなりません。精神的なものだと自己判断のみで決めつけてしまうのは危ないので、もし、耳鼻科を受診されていないようでしたら、早急に受診することをお勧めします。

次に、現在も精神科あるいは心療内科などに通院されているのでしょうか?そうであれば、主治医の先生とよく相談されてみてください。もし、現在は通院していないという事であれば、通院していた所にもう一度受診して、相談してみてください。というのは、確かに、不安が強くなって、身体の症状として出てくるような状態や自律神経失調症のようなもので、耳の不調となっている場合もあります。しかし、気をつけなければならないのは、「うつ」の身体症状の一つで、自律神経症状をおこすことがあるという事です。その際には、「自分で頑張って乗り切る」だけではどうにもならなく、かえって悪化させてしまうこともあります。「うつ」が悪い時はやはり休養や薬の治療が大切な事が多いのです。 耳鼻科的な病気でも、「うつ」の症状でもないのであれば、森田療法的な考えは役に立つと思います。このホームページや森田療法の本などを読んでいっていただければと思います。

つまり、まずはこの状況が一人で乗り切っていくような状態であるかという事を自己判断だけでなく、耳鼻科、精神科(心療内科)で判断してもらう事が一番大切と言えるでしょう。
(谷井一夫)

「希望も不安も貴方自身です」 '09.6

Bさん、こんにちは。深くお悩みのようですね。悩むことは大変つらいことですが、一方でこの辛さを乗り越えることによって次なる地平が必ず拓けてきます。さあ一緒に考えていきましょう。

元々“引っ込み思案で、落ち込みやすく、人の目ばかりを気にしてしまう”とのことですね。少しご自分のことを悲観的にとらえてしまっているかもしれませんね。しかし、こうした様々な側面をもつ自分がいることを冷静に受け止めることは大事です。人間はとかく、理想を描きがちですが、等身大の自己をまずは冷静に認識する必要があります。その上で、そうした等身大の自己(あるがままの自己)をコツコツと育てていく必要があります。急に理想に近づくことは誰しもできないものです。何事も時間がかかるものです。我々には地道さが求められるのです。ではどうしたら良いのでしょう。

おそらくBさんは“他人から変に思われたくない、良く思われたい”と人一倍思っているのではないでしょうか。こうした“より良く生きたい”という思いは何もおかしいものではありません。常に向上発展を願う我々人間にとっては自然な感情と言えます。しかし一方で、こうした「より良く生きたい」という希望(欲望)が強いと、「そうならなかったらどうしよう」という不安が自然に生じるものです。

Bさんの場合、この不安にとらわれてしまっている状態のように思われます。この不安にとらわれればとらわれるほど不安はますます強くなり、その結果として不安の渦の中に呑み込まれていってしまいます。ここで大事なのが、我々人間に向上発展を願う気持ちがあれば、同時に当然生じ得る不安を消し去ろうとはしない態度が大事になります。希望が貴方自身であると同時に一方で、希望と同時に生じる不安も貴方の一部分であります。希望も不安も貴方自身と言えます。ですから、希望も不安も一緒に貴方自身が抱えながら、一歩一歩目の前のことに取り組んでいくことが大事になります。さあ、あなたの希望(具体的な目標を作ることが大事です)に向かって、コツコツと地道な歩みを続けていきましょう。
(川上正憲)

「動きが気になったときにはあえて動いてみる」 '09.5

Mさんは呼吸を過剰に意識して自分の動きまで気になるようになったと困っています。以前、花粉症が辛いときに、普段は何気なく行なっている呼吸も息苦しく感じ、呼吸が気になるようになり、その時は森田療法を実践し軽快したとの事です。

しかしこのたび、仕事でストレスが重なるなか症状が再燃しました。Mさんがそうであったように症状が出現する前後にはストレスの増強を認めることが少なくありません。Mさんは元来神経質とのことで、格好悪い自分を見せることに抵抗があったり、自分の出来る範囲を超えて無理をしていたことも考えられます。再燃前の仕事場面では人に頼めず仕事を抱え込んだりはしていませんでしたか?

Mさんは以前よくなったように森田の本を読んでみようとされましたが、本を読むことで症状をことさら意識してしまったようです。以前実践したことがある方であれば知識が足りないことはないと思います。

そこで、大変ではないことで毎日続けられることをやってみることをお勧めします。この季節であればラジオ体操などをやってみてはいかがでしょうか。気にならなくなっていた時期が気のせいだったのかとも感じていますが、やっているうちに不安ばかりに向いて意識が不安以外にも向くよい契機になり、前回同様に行動出来るようになっていくと思いますよ。
(矢野勝治)

「一人でいる不安」と「病気に対する不安」 '09.4

Mさんは、「広い事務所で一人で過ごしているときの不安」と「(身体の)病気に対する不安」を書き込まれています。
Kさんも「卵巣腫瘍で緊急手術してから、ちょっとした体の違和感ですぐに何か重い病気なのではないか、癌で死ぬのではないかという不安にとらわれてしまいます」と書き込まれています。

Kさんは心療内科に通われているとのこと。Mさんも食欲不振や動悸、気分の重さがあるとのことなので、必要に応じて受診・相談をしてくださいね。
さて、Kさんは卵巣腫瘍の手術のあと、Mさんは子供の頃の大病もあって病気に対する不安が強いとのこと。さぞ、怖い思いや心細い思いををされたのでしょうね。

病気に対する不安の裏には「健康でありたい」という願いがあるはず。「病気を怖いと思わないように」というのは不可能なことですよね。「怖い」という不安は持ちつつ、事務所の中、通勤の道すがら・・にも目を向けてください。

森田先生ご自身も若い頃病気がちで、病気に対する不安をもちやすかったこと、そのご自分の体験も通して森田療法を確立していったことは有名な話。お二人は森田先生と同じ悩みを持っているのですね!
森田先生は「『本当の病よりは、心配なうちが安全である』ということに気がつけば、それが私の『自然に服従し、境遇に従順なれ』ということのはじめで、その病の直るきっかけとなるのです」ともおられます。

もうひとつ、Mさんは、一人でいるときの不安や淋しさを書き込まれています。 これまでにぎやかに楽しく仕事をされてきた分、淋しく心細いと感じられているのでしょうね。
けれども、慌てて不安を消そうとしてインターネットを見たり、誰かに連絡を取りたくなるのを、ちょっと待ってみてください。果たして、不安は、同じ強さで続くでしょうか。そして、手のつくことから仕事に向かってみましょう。始めは書類整理や入力の作業などが手がつけやすいでしょうか。
森田療法の言葉ではありませんが、「一人でいる能力(capacity to be alone)」という言葉もあります。含蓄があって私も大好きな言葉です。「大好きで素晴らしいお友達もたくさんいる」、人と関わる力のあるMさんだからこそ、一人の時間もただ孤独で淋しいだけの時間でなく、味わうことができるのではないでしょうか。
一人で過ごす時間を豊かにして、人と過ごす時間をより一層充実させていってください。
(塩路理恵子)

「出来ることと、出来ないこと」 '09.3

Sさんの悩みは、嫌悪感や憎悪が「関わりたくない→触れたくない→汚い」という感情に繋がり、嫌悪感や憎悪を抱く相手に関連するものに触れることができず、洗浄に長時間を要してしまう・・というものです。

私たちは、実際に不潔であるものを「汚い」と表現する以外に、自分の中で受け入れ難いものに対しても「汚い」という言葉を用いることがあります。これは自分とは異質なものとして排除したいという気持ちの表れでしょうし、Sさんのように、嫌悪感や憎悪を抱くものとも言えます。

好き嫌いの感情は誰にでもあるものです。それだけでなく、私たち人間は、喜び、悲しみ、怒り、憎しみなど、さまざまな感情を持っています。こうした感情は我々の生活に潤いを与えてくれると同時に、時に苦しみももたらします。とりわけ、怒りや憎しみなどといった感情は、とても受け入れ難く心をかき乱すものとなるでしょう。Sさんにとっても、そのきっかけとなった相手に対して、きっとどうにもならない思いが沢山あったのだと思います。自分の中で許せない思いや受け入れ難い思いが強ければ強いほど、私たちはそれを取り除きたくなります。そうした感情を抱えているのが苦しいから、当然それを何とか解決したいと望む。それもとても自然な姿勢ではあるのです。

しかしながら、たとえ自分の感情でも、それを思うようにコントロールすることは困難です。それゆえ、消し去りたい不快な感情に関連するものを「汚れ」として排除することで、とりあえず「すっきり」させようとする。たとえ仮初めの安心だったとしてもSさんにとって、それが何とか出来る唯一の方法だったのかもしれませんね。しかし、嫌悪感が強ければ強いほど、徹底的にそれを排除したくなってしまうために、「汚れ」の対象はどんどん広がり、生活はその作業に追われることになります。まさに蟻地獄ですね。

Sさんも気づいておられるように、嫌悪感や憎悪にどのように付き合うかに解決の糸口があるようです。ただ、それはSさんが目標としているような嫌悪感や憎悪の解放なのでしょうか?冒頭にも書いたように、私たちがこうした感情を抱くことはとても自然なことであり、また人間的なことです。嫌悪感や憎悪から全く自由になることは不可能でしょう。憎しみを抱くにはそれ相応の理由があったはず。好き嫌いに良いも悪いもありません。ただし、そうした感情に翻弄され、自分の生活がどんどん不自由になってしまっていることが問題なのです。

嫌悪感や憎しみを何とか消そうと悪戦苦闘したにもかかわらず、結局、憎悪を抱いた相手よりも苦しみ、疲弊し、洗浄だけに追われる生活をおくらざるを得なくなっているとしたら・・・、とっても損をしてしまっていますよね。嫌悪感も憎しみも、それ自体はあってもいいのではないでしょうか。それなりの理由があるんだと、自分を認めてあげましょう。そして、嫌悪感や憎悪を消すよりももっと大事なこと、つまりその相手に負けないくらい、充実した人生を送ることにエネルギーを使ってみましょう。マイナスの感情をなくそうとするのではなく、それを逆にばねにしていくのです。どんな小さなことでも構いません。Sさんが興味を持っているもの、楽しそうだと思うものに手を出してみましょう。それは、Sさんのやる気次第で出来ることです。嫌悪感や憎悪を解放しようとしたり、汚れを徹底的に排除するといった「出来ないこと」にエネルギーを使うのではなく、嫌悪感を抱くきっかけとなった相手に負けない人生を送る、というように、自分の努力次第で「出来ること」に力を注ぐのです。本当の意味での満足は、汚れの排除ではなく、日々の生活を充実させていく中で得られるものです。Sさんが生活の中で少しでも「楽しい」「嬉しい」と感じられるようになれば、それまで貴女を苦しめていた嫌悪感や憎悪もそれほど恐れる存在ではなくなると思いますよ。
(久保田幹子)

「頭部打撲後の読書恐怖」 '09.2

Hさんは、小5のときに頭部を打撲してもうろうとした状態に陥り、その後から物忘れと文章を読めない感じが出現したとのことです。今でも文章を読むことへの恐怖心が強く、「頭部外傷性神経症」に詳しい方に返信を求められていました。

「外傷性神経症」という用語は、今ではあまり使われませんが、昔は頭部外傷などの後に起こる神経症の症状を、そう呼んでいました。神経組織の微細な損傷が原因だとする説がある一方、心理的原因によって起こるとする説も見られました。

Hさんの場合、頭を打ってから、もうろうとした夢うつつのような状態が続き、15分から30分くらいして意識が回復したとのことですから、その間は脳震盪と呼ばれる軽い意識障害の状態にあったのでしょう。脳震盪はスポーツ中などによく起こり、ふつう後遺症を残さず回復するものです。

ただしHさんの意識が戻った直後の物忘れや読書困難な感じには、打撲時のごく軽微な神経損傷が影響していた可能性がゼロとはいえません。仮にそうだったとしても、数年後には県で一番の公立高校に合格されているのですから、知能障害などの持続的な後遺症はなかったと判断されます。そうなると、Hさんを今でも悩ませている問題は、神経の損傷に由来するのではなく、次のような心のからくりに起因していると思われるのです。つまり脳震盪の体験をきっかけにして、記憶力や集中力が低下したのではないかという恐れ→読み落としがあるのではないかという不安にとらわれる→最初に戻って読み直すといった、はからい行為を繰り返す→スムーズに読み進めない(読書困難感)→さらなる読書への恐怖といった悪循環です。

文面から推察する限り、Hさんは完全欲、向上心が強く、努力家でいらっしゃるようです。それだけに、目的本位にがんばって勉強を続け、「薄皮をはぐように徐々に改善しつつある」のでしょう。「できれば読む恐怖心をなくしたい」とあり、それが本心であるのはよくわかります。しかし事実が物語っているのは、恐怖心がなくなってから読書に向かったのではなく、恐怖心を抱えながら読書を継続した結果、少しずつ読めるようになったということです。つまり恐怖心は、決定的な妨げではなかったということなのです。Hさんの回復への道筋は、こうした今までの取り組みを続けていくことにあります。その上でひとつ具体的な対策をお伝えすることにしましょう。

現在の読書恐怖には、読み落としがあってはならない、きちんと理解しなければならないという完全欲が影響しているようです。そこで、こうしたとらわれから脱するには、多少わからないところや読み落としがあっても前に戻らず、どんどん読み進めていくという経験の蓄積が必要です。固い本よりも、ミステリー小説のように読みやすくて筋の面白い本をざっと読み飛ばすというやり方を試みてはいかがでしょう?興味が湧くようなら、ちょっぴり艶のある本だって構いませんよ。
(中村 敬)

「強迫観念症とライフクライシスの節目」 '09.1

Kさん、高校二年から強迫観念に悩まされ今仕事をしていてさらに強くなりさぞかしお辛いと思います。

高校二年からはじまり仕事をしはじめてさらに症状が悪化しているというのは森田神経質の方によくあることです。それはライスサイクルの節目には誰しも不安や症状が強くなります。ライフサイクルの節目とは具体的にいうとこれからの人生どのように生きているかを決定していく時期、人によっては大学受験あるいは就職といった時期などです。このような時期に不安が強まるのはある意味皆自然な現象ですよね。ところがこのあってよい自然な感情を排除しようとすればするほどそのことへ注意が向き「とらわれて」しまいます。

症状が強くなるから仕事をやめたりしないことがまず大事です。鋭いものをが目を傷つけるイメージを意図的に排除しようとしていませんか?あってはいけないと思えば思うほどこのことへ「とらわれて」しまいます。イメージが浮かんだらそれを排除しようとせずそのまま「ほおっておく」ことを実践してみてくださいね。ただすぐにこれを実践できないことも多いので少しずつ今までと違った対処(ほおっておく)をしてみてください。

以上は強迫観念症と診断した場合のアドバイスです。少し気になるのが「頭の中左上の部分がぎゅーっと締めつけられるような痛みがある」ということです。念をいれれば大きな病院で頭のCTあるいはMRI、脳波検査を受けたほうが良いかもしれません。強迫観念以外の病気でないことをチェックしておいた方がより安全でしょう。
(舘野歩)

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