症状別アドバイス集

強迫神経症の部屋

「心はひかれるまま、目的地に進む」 '16.12 

 Mさんは、「漠然とした恐怖感からか異常な程に確認しないと、物事に着手できない」と書き込まれています。

 確認強迫の背後には、「ものごとを、きちんと、間違いないように進めたい」という欲求があると言われています。本来、几帳面で真面目な方なのでしょうね。

 「間違いがあってはいけない」と万全を期する姿勢になってしまうと、確認すればするほど確認が増えてしまう、という悪循環が起こってしまいます。

 私生活でもさまざまつらいことがあり、苦しい思いもされたご様子であり、Mさんの確認強迫には「戦いやすいように敵を一つにした(苦しいことや不安を確認症状にまとめてしまった)」(防衛単純化、という言葉もあります)という側面もあるのかもしれません。

 今を感じられない、楽しむこともできない、とのこと。私の好きな森田先生の喩えに、「本を読むときに雑念が起こるのは、お使いに行く途中で、本屋や菓子屋やチンドン屋などに心がひかれると同様で、ただ心のひかれるままに目的地に進むよりほかありません。」というものがあります。「不安のままに次の行動に移る」という苦しい取り組みも、小さいときにお使いに行ったときの「お母さんが待っているから急いで帰ろう」という懐かしい気持ちを思い出すと、少し肩の力が抜けてイメージがつきやすいかもしれません。

 そしてぜひ、確認以外の生活も大切にふくらませてください。また、周りの人のサポートも受けながら、掲示板の活用もしながら、少しずつ本来の「〜したい」を取り戻していってください。
(塩路理恵子)

「縁起恐怖」 '16.11 

 同じ道を通らないと何か悪いことが起こるのではという強迫観念、特に縁起恐怖に悩まされているようですね。精神病のような障害ではありませんが、不安障害の一つである強迫性障害という診断が該当します。

 悩みに至らないまでも、このような特徴を有している方は、かなり多くいるものです。一例を挙げれば、最近話題になったルーティンが該当すると思います。これは、選手が良い結果を出すための一種のゲンを担ぐ行為です。ただ縁起恐怖という強迫症状と、ゲンを担ぐ行為には違いもあります。強迫症状が不安を解消することのみを目的とした行為であるのに対し、ゲン担ぎはあくまでも、その後の行動をより良くさせるためのお祈り程度のものと言えます。そして、安心ばかりを追い求め、不安の解消に躍起になっていると、却って不安に注意が吸い込まれ、強迫症状に陥ることとなり、その悪循環から抜け出すことが出来なくなってしまいます。

 そこで、不吉な予感が頭を駆け巡ったら、これこそ縁起恐怖と認識し、安心のための確認行動に手を伸ばさないように踏ん張る事が大切となります。しかし、これだけだと単たる我慢比べにしかなりません。Yさん本来の欲求は、安心した後、生活のあらゆることに着手し、より充実した人生を送ることにあったのではないでしょうか? そうであるとするならば、安心の是非は一旦脇において、まず人生を豊かにするための日常生活に目を向け、少しでも生活を回し、より良くする働きかけを心がけてください。

 頭で考えるだけでは幸せにはなりません。幸せは不安だけれども日常生活に働きかける行動でしか宿らないことを忘れないようにしましょう。これは、Yさんにとって新しい挑戦になります。例えて言うならば、お子さんが初めて自転車に乗り、転びながら乗り方を覚えるようなものです。だから、回復には地道が信条と心得、取り組んでいただければと思います。Yさんに新たな幸せが宿る事を願っております。
(樋之口潤一郎)

「知らないことをオープンに」 '16.10 

 Tさん、せっかく学校が始まったのに友人とうまく話せず辛そうですね。「二日目から友人のはなしについていけなくて」とありますね。「社交不安症(対人恐怖)」に近い症状かなと推測します。ただ登校できているのであれば、まだ「障害」まではいかないとは思いますので安心して下さい。
 「友人の話についていけなくなり」と思った時、話題について相手が自分より知っているかどうかで判断していませんでしたか?

 赤面恐怖の患者が森田先生へ「赤面恐怖症は、なるべく交際をしないで、厭人的生活(注:人とつきあうことをしない生活という意味)をしばらく続けた方がよいでしょうか。またその反対の態度をとって赤面恐怖の起こるところに任せつつ、人と交際し、職業についた方がよろしいでしょうか。」と質問しています。これに対し森田は「厭人的生活はだめです。これは恥を軽減する手段ではありません。赤面恐怖は、本来自分が人に勝とうとする心の反面です。自己の本来に立ち返りなさい。」と答えています。

 また森田は友人ができないと嘆く人に、「それは交際を求めてくる人さえも、自分がこれをすなおに受け入れないからである。人に負けるのが嫌だからである。盲人がやたらに目明きを邪推して、すね、いこじになるようなものである。自分の本心が孤独を好むのではない。負け惜しみである。勝とうとあせるから負ける。負けるがままに捨て身になれば必ず勝つものです。」と説いています。

 Tさんの話題に戻すと、まず「自分が知らないことは知らない」とオープンにしてはどうでしょうか。そして「だけど自分は興味がある」とのメッセージを伝え、輪に入っていればと思います。自分の知らないことは知らないとオープンにして聞き役から入っていくのが良いでしょう。
(舘野歩)

「病気不安症(心気症)と縁起恐怖に対する森田療法」 '16.9 

 Eさん、病気に対する不安、強迫行為でお辛そうですね。病気の不安が増すのは特にライフイベントのタイミングであると振り返っていますね。また幸せを感じたり物事がうまくいっている時ほど不安を強く感じるのですね。それはまさに森田が指摘した、「不安を抱く裏側には過大な生の欲望がある」といった両面観につながります。Eさんはそれだけ「よりよく生きたい」「健康でありたい欲求が強い」のです。また慈恵医大元精神科牛島先生は、森田神経質を基盤にライフサイクルで危機に陥った時に発病しやすいと指摘しましたのでE様はまさにそうなのだと思います。ライフサイクル変化の際、それだけ周りの人や環境に順応していかないといけませんよね。その際に、辛いことを辛いと言ったり、うまく周りに頼りつつ乗り切っていくことが大事でしょう。女性の葛藤とそれに対する森田療法について不安神経症の部屋の今月の回答も参考になさって下さい。
 また「順調にいっている時や幸せなときは、そのままその状況を心から喜びたいのです」と書かれていますね。しかし、もしかしたら「心から喜ばなければならぬ」と頭で感情をコントロールしていないでしょうか。森田は自然な感情を理性でコントロールすると「思想の矛盾」に陥ると述べています。「こうあらねばならぬ」から離れて自分の率直な感情を見つめてみましょう。
 こころのなかでの確認強迫行為を何回も繰り返してしまうのですね。いわゆる縁起恐怖に近いかもしれません。でもその根底にあるのは、不安が現実のものになることですね。不安に思われていることを未然に防ごうとするのではなく、大変でしょうけれど実際に起きた時に対処するようにしてみてはいかがでしょうか?おそらくE様が起こると思っている確率は低いと推測します。この万が一起こるかもしれない可能性を優先せず、万が一起きた時に対処していくと思ってみてはどうでしょうか。
 病気不安と縁起恐怖と二つ病気があると思わず根底にあるのは不安で共通していると思います。二つ病気を持って大変と悩み過ぎないで下さいね。
(舘野歩)

「対人関係の傷つき易さは、期待の大きさの裏返し」 '16.8 

 Aさんは、相手の言葉の意味をあれこれ考え、とらわれてしまうことが悩みとのことでした。特に、否定的な意見を言われると自分の存在全てが否定されていると受け取ってしまうと書かれています。こうした悩みを抱える人は、とても多いのではないでしょうか。実際、否定的な意見を快く受け止めるのは難しいことです。Aさんも「相手の言葉の意味をあれこれ考えても解決しないことは頭ではわかっている…」と書かれていますが、理屈でわかりつつも、納得がいかないということなのかもしれません。

 では、なぜ相手の言葉の意味をあれこれ考えてしまうのでしょう。それは、どこかで否定的な意味を否定する証拠を探している、あるいは否定されたという確証を探しているのかもしれません。それ自体は全く逆の方向性(肯定と否定)なのですが、そこには共通する姿勢があるのです。つまり、「それ以上は考えずに済む」といった【答え】を求める姿勢であり、モヤモヤを残さないようにする態度です。しかしながら、否定的な意味を否定しようとしても、自分はその相手ではないので確証が得られない。否定されたと決定づければ、当然後味は悪い。どちらに転んでも結局モヤモヤは消えないのです。それゆえ、ぐるぐると同じような考えを繰りかすといった無為な時間を過ごすことになるわけですね。

 相手の言葉に反応してしまうのは、それだけ「良く思われたい」、「評価されたい」という願望があるからこそです。つまり、期待が大きいからこそ、思ったような反応が得られないとひどく傷つくということですね。そして、そのモヤモヤに耐えられず、全否定されたと受け取る(決めつける)ことは、結局さらに自分を傷つけることになり、より一層周囲に対して懐疑的になってしまうのです。

 他者から認められたいという欲求がある限り、こうした悩みや葛藤から完璧に自由になることは不可能かもしれません。それほどに、私たちは他者と関りながら生きていると言えるのです。とはいえ、他者の評価だけに支配されないようにすることは出来るのです。そのためには、自分が自分をどのように認めていくかが重要になります。案外、他者の目と思っているけれど、実は自分の目かもしれないからです。すなわち、自分が自分に対して高い理想を抱き、評価しているために、それが他者の目のように感じるということです。本音の部分では「そんなにあれもこれも、パーフェクトは無理だよ…」と思っている自分もいるのではないでしょうか。

 いつものように答えを求めてグルグル考え始めてしまったら、考えること自体を止めることはできないので、日頃試している草花の手入れでも良いですし、「とりあえず…」といった塩梅で、自分なりに出来ること、やりたいことを続けてみましょう。そうしている中で、違う可能性も見えてくるでしょうし、少しずつ自分らしさを感じられるようになってくると思います。
(久保田 幹子)

「次の行動へ」 '16.7 

 戸締りのチェックを執拗にしてしまう強迫行為や、不安な事件・事故を思い浮かべてしまうという強迫観念に悩まされていらっしゃるんですね。両方ともやめようとすればするほど出てきてしまうのが特徴ですね。

 この症状の背景には、Aさんの生の欲望(よりよく行きたい気持ち)が隠されています。「安全でありたい欲求」です。安全に暮らしたいからこそ、戸締りを何度も確認してしまったり、不安な事件・事故を思い出してしまうのです。人間の「安全でありたい欲求」は失くすことはできません。なぜならそれは自然な欲求だからです。そのため症状もなくならないのです。

 そのため、症状を失くそうとすることは一旦保留にし、今やるべき次の行動に気になりながらも移っていってください。ここで大切なのは一旦保留にすることです。強迫行為や強迫観念が出ているときは今すぐに解決しないと、と思いがちです。保留にして次の行動に進むことができれば、感じていた不安を忘れてしまう瞬間が出てきます。また忘れる瞬間がなくても、抱えながら次の行動に進めれば大きな進歩です。

 なかなか次の行動に移ることができない場合は、時間を軸にしてチャレンジしてみて下さい。「すっきりしてから次の行動へ」と思いがちですが、「すっきりしなくても、一定の時間になったら次の行動へ」にシフトしていってください。なぜなら、すっきりするまでを基準にすると何時間も強迫行為にとらわれてしまい、もったいないことになることがあるからです。

 Aさんは社会人になってから日常生活がうまくいかなくなり強迫行為・観念が悪化したと書かれています。このように症状の背後には環境の変化やそれにまつわるストレスがあるのが一般的です。自分がどのような部分を無理しているのか、どこが上手くいかないのかをカウンセリングなどで発見していくことも治療につながるかもしれません。
(石山 菜奈子)

「友達づきあいの悩み」 '16.6 

 Tさんが友達づきあいの悩みを日記として投稿されていて、皆さんとのやり取りが活発に行われています。こんな風に支え合い、話し合える関係は素敵ですね。日記に久しぶりと書いてあったのでちょっと振り返ってみたところ、元々は中2の時に冗談を言われてから自分は周りから嫌われているのかもしれないと思って周りに気を使うようになり、それがどんどん悪化していったという経過だったんですね。高2の時にニヤケの症状が出てきたとも書かれていました。初回投稿の頃は浪人生とも書かれていたので、今大学に入られて、通学し授業を受け、友達が増えていっていることはとても大きな進歩ですね。フォーラムの支えもあったとのことですが、こんな風に切り開かれていったTさんはすごいと思います。現在は楽しいときと不安になるとき、定期的に波があることに困られているようです。それは定期的な波という問題なのでしょうか?

 Tさんは、とりあえず関係を持つ、付き合う、楽しい時間を持つことはできるようになってきているということですよね。そして色々話す友人もできてきたけれども、話す話題がないと不安になったり、楽しく過ごした日でも次の日や来週のことを考えると不安になる。Tさんの気遣いが聞こえてくるようなエピソードです。楽しく過ごせるようにはなってきたけれど、その日が終わると不安が募るのはTさんの完全主義ゆえの心配という側面と、付き合い方にまだどこか無理があるという側面の両方があるように思います。みんなに対して、家で一人でいるときのような自分をそのままさらけ出す必要はないので、無理もあってもいいのですが、悩みの度合いからすると少し無理の方が勝っている可能性が高そうです。

 Tさんは友達とどういう状態にある時に楽しいと感じるのでしょうか。たくさん周りが笑っているとき?自分が話題を色々提供できて笑いあえたとき?それとも?

 今Tさんが友達関係において感じている不安は、自分らしさを出しきれないところと関係しているように思います。対人関係の形成という点から言うと、第二段階に入っていると言えるかもしれません。ある程度の関係をいろんな人と持てるようになるのが(1)。次の段階(2)は、自分を出し自分の感覚に沿った友人を作ったり、より深い関係を培っていくことです。それを望んでいなければ、もちろん第一段階で終わりでいいのですが(そういう人もたくさんいます)、Tさんが悩んでいることからすると、Tさんの場合は前者なのかなと思います。つまり人間関係に(1)も(2)あるということですね。

 日記の中に少し自分らしさが出ている様子だったり、深い関係を培っていくのに大事だと思う記述がいくつかあったのでここに少し挙げてみます。
 6/15の日記には「最初引いていましたが、食いぎみに聞くことができました。そしたら自然と楽しかったです」とあります。自分も聞きたいことを聞いて、お互いに話し始めると意識して操作しなくても自然と楽しかったのではないですかね。ここではTさんはちょっと自分らしくいられていたのではないかと思うのです。
 6/28の日記には、毎回同じ友達の子に苦手意識を持つとあります。これもとても大事な感覚だと思います。Tさんはこの方のどんなところが苦手なのでしょう。苦手=ダメではありません。その人は何かTさんが嫌だと思うような部分を持っている方なのでしょうか。それとも、その逆で何か羨ましく感じるような部分を持っている方なのでしょうか。こういう自分が感じた気持ちを少し掘り下げて、本当は何が嫌なのか、その奥にある気持ちは何なのかを自分に問いかけてみてください。そうすると、どういう関係をTさんが持っていきたいのかが少しわかってくると思います。

 サークルで足がつらないようにフットサルとランニングをしたり、体脂肪率も考えて計画的に動くなど、問題を論理的に考えて対処していこうとするTさんにとっては、ちょっと怖いかもしれないけれど、この人ともっと話したいなとか、これを聞いてみたいなというときに、その気持ちに沿って動いてみて(=自分らしさを出してみて)どんな感じかを少しずつ試していけるといいですね。そうする中で、発見もまたあるはずです。応援しています。
(今村祐子)

「神仏を尊ぶ姿勢」 '16.5 

 Uさんはバチが当たるのではないかを気にしてお守りやお札の確認をやめられないとのことで困っています。「何か不吉な想念が浮かぶと、それをそのまま放っておくことが出来ない。その想念を打ち消すためにいろいろのやり繰りをする(高良武久著作集)」縁起恐怖の症状と考えます。同書では「縁起恐怖は人間の運命に何かえたいの知れないあるものが作用していて、そのあるものの作用はまた人間のある特別な思念や行動によってある程度左右できるのだという信念に根拠があるもののようである」と書かれています。

 神仏を尊ぶ姿勢が、粗末に扱うとバチが当たるのではないかとの思いに繋がり、粗末にしていないかを過度に気にして、Uさんの確認行為が生じているのではないかと思います。あり得ないところにお守りやお札が入り込んでいるんじゃないかと思い確認しないではいられないようです。

 一方で、仕事にも行き日常も何とか送れているとのことです。時間はとられるものの次にすすむことは出来ている様子です。  確認するうえで、(大事にする思いが強いがゆえに充分ではないのではないか)と感じて、意識が集中することでさらに気になるものです。あり得ないという思いがあるようですので、森田療法の考えに沿って気分で行動しないでやってみましょう。
(矢野勝治)

「今を生きる」 '16.4 

 Yさんは人と関わることが苦手で悩んでいらっしゃるようです。その背景には、ご両親の不仲といった家庭環境の問題や学生時代のいじめられた経験や不登校などがあるようですね。今まで沢山の苦労をされてきたのだと思います。Yさんは過去にそのようなことがあっても、今は働かれているのですね。とても立派なことだと思います。

 今までのことがあって、どうしても人を避けてしまうという心境や、過去の嫌な体験をなんとか変えたくなって、過去のことばかりを振り返ってしまうこと、良く理解できます。ただ、残念ながら我々は「過去の事実と他人は変えることが出来ない」生き物です。変えられるとしたら、「自分と未来」だと思います。そうだとするのであれば、これからエネルギーを注いでいくところは「今」「これから」のことです。過去にとらわれ、今をおろそかにしてしまうと、その先も同じことになってしまいます。

 Yさん、今働かれている職場で、挨拶などの最低限のコミュニケーションは必要でしょう。しかし、無理に雑談したり、対人関係を作ろうとしたりする必要はありません。職場で一番大切なことはきちんと仕事をやっていくことですから、まずは今の仕事に丁寧に一生懸命、取り組んでいきましょう。ただ、仕事上で他の人たちと関わることが必要になってきたときには、内心は嫌々で構いませんが、きちんとコミュニケーションをとっていきましょう。そうしているうちに対人関係は後からついてくるものです。その時に、Yさんが「人と関わることに対して感じること」はもしかしたら変わっているかもしれません。

 「今」に一生懸命エネルギーを注いでいるうちに、過去の事実は変わらないけれども、過去の事実に対しての捉え方、認識が変わることはあると思います。辛い思いをされてきたにもかかわらず、お仕事をされているYさんなら、出来ると思います。是非とも頑張ってくださいね。
(谷井一夫)

「死の恐怖」 '16.3 

 Nさんは現在、強迫観念にとらわれ、悩みの渦中で苦しまれていると思います。森田療法との出会いは偶然であったでしょうが、それも、Nさんが「何とかしたい」という強い思いで、心療内科を受診したからこそではないかと思います。
 ところで、Nさんは体調不良から死の恐怖に駆られるようになりました。Nさんは何故、そこまで死を恐れてしまうのでしょうか? 死、自殺、殺人など、全てが、我々にとって、不愉快で決して心地よいものではありません。死を忌避したいと願うこと自体は、我々にとって自然な反応でもあると考えます。しかし、得てして死を恐れる患者さんは、「心身に万が一の事が起こったら、もう自分はやりたいことも何一つ出来ない。もうだめだ」と感じていることが多いように思います。裏を返せば、それだけ、「あれもやりたい、これもやりたい」と欲張りな位の心情が、万が一の事態で叶えられないことを、人一倍恐れているのだと考えます。森田先生が、死の恐怖の背後に「生の欲望」が潜んでいると唱えた所以が、Nさんの場合にも見て取れるのだと思います。

 そうであるとしたら、Nさんは、「何を一番叶えたいのか」と自分に問いかける必要があります。その際、絶対の安全を求めて、死の恐怖を一番に払拭することを掲げてはいけません。絶対の安全は、そもそも現実の世界には存在しないからです。やはり、死の恐怖の背後にある「あれもしたい、これもしたい」という欲求を、現実の世界の中で、少しでも叶えられるよう奮闘することが大切なのです。けれども、もし、そのような欲求がすぐに見つからない場合であっても、「死ぬ訳にはいかない」という気持ちをむしろ生かして、健康的な生活に目を向けるようにしてください。死を恐れ、自宅に閉居しているだけでは、健康的な生活からほど遠くなってしまいます。その際、大切なのは体力を落とさない働きかけだけでなく、家事など日常生活を通じて生活感を養うことです。このような取り組みから生活に流れが出てくると、次第に死の恐怖一色のであった生活に喜びや躍動感などが漲ってくると思います。
 是非、Nさんの並々ならぬ「易々と死ぬ訳には行かない」と気持ちを、実生活に反映していって欲しいと思います。健闘を祈っています。
(樋之口潤一郎)

「神経質は上等だ」 '16.2 

 Mさん、最初は周りからの指摘から過去の嫌な経験まで思い出しさぞかし辛かったと思います。
でもビデオでもう一度振り返れ、ご自身の特徴を長所として捉えてくれた人が周りにいたことに気付けて良かったですね。「神経質そのものがそんなに悪いものではない気がしました。」とありますが、まさにそう思います。森田はかつて、他の様々な性格と比較して「神経質は上等だ」と述べました。どの性格もある一面を見れば欠点ともとれますが別の見方をすれば長所とも取れることもしばしばです。神経質性格も、「内向的、受動的、」といった側面だけを見ずに、「きちんとしている、完全主義(良くありたい気持ちが強い)」といった側面も見ていくことが大事です。ご自身、「神経質そのものがそんなに悪いことではない気がしました」とはまさにこのことと通じるかと思います。

 また「自分で拒否している部分(細かいことに気付いたり、こだわったりするところなど)も嫌がらず、受け入れようという気持ちになりました」と言っているのも印象的でした。自分の特徴を欠点と捉えるのではなくいかに生かすかといった観点が大事になります。

 また、「わき上がる感情は取捨選択できず、葛藤や苦しみは修養、成長を促すものといわれると少し気持ちが緩みます」は森田で言う「わき上がる感情を理性で操作せず、自然まままでいる」ということに繋がります。「わき上がる感情を理性でコントロールしようとする」ことを森田では「思想の矛盾」と言います。
思想の矛盾とは、こうありたい、こうあらねばならにと思想することと、事実、すなわちその予想に対する結果とが反対になり、矛盾することに対して、森田がつけたものです。

 森田は「誤った思想を離れ、事実そのままになれば、もとより同一のものであって、両者の区別はない。ただ精神が発達する過程で、思想が発達するとその間にはなはだしい隔たりを生じるようになるのは、豪毛の誤りから千里の差を生じるようなものである。(中略)

 一方を離れて一方にのみ偏向、発展するとき、あるいは一方には苦悩の執着を起こし、一方には思想の迷誤を重ね、禅でいうところの悪智となり、ますます迷妄に深入りするようになるものである。私が思うには、いわゆる『悟り』とはこの迷誤を打破し、外界と自我、客観と主観、感情と智識とが相一致し、事実そのままになり、言説を離れて両者の別を自覚しないところにあるのではないか。」と述べています。

 Mさん、「悟り」にこだわらなくて良いですが、様々な感情を理性でコントロールせず味わっていくと心の器が広がっていくと思います。基本的にMさん、森田療法の回復過程を良くたどっていると思います。これからも体験フォーラムを利用して回復していかれることを祈っております。
(舘野歩)

「問題は失敗するかどうかではなく、失敗した後にどうするか」 '16.1 

 Sさんは「仕事が出来なくて、職場からはじかれてしまうに違いない」という恐怖から、内定辞退という形で逃げ続け、就職が出来ないと悩んでいます。今までの職場では、緊張してミスをする→指摘されてパニックになる→さらにミスを繰り返す→周囲から「本当に」使えない奴だと思われてしまう・・・を繰り返してきたそうです。
 緊張してしまうのは、それだけきちんと仕事をしたい、評価されたいと思う気持ちが強いからこそですよね。こうした気持ち(願望)から身構えてしまのは、ある意味当然のことです。またミスを指摘されてパニックになる(慌ててしまう)のも自然な反応です。つまり、ここまでは何も問題はないのです。問題はここからです。「さらにミスを繰り返す」・・・となる前に、どんなことを考え、また心がけているでしょう?
 Nさんもアドバイスされていますが、ミスのない人間はおそらくこの世に存在しないでしょう。大切なのは、ミスを指摘された時にどうするかです。syuiroさんはどんなふうに対処されていたでしょうか。ミスをしてしまった時、またそれを指摘された時、私達は恥ずかしく思ったり、自分に落胆したり、周囲の怒りに怯えたり…と色々な気持ちになるものです。それは大抵後味の悪いものですし、その気持ちから逃げ出したくなってしまうでしょう。そうなると、謝罪がいい加減になってしまったり、強気な態度をとってしまったり、ミスのフォローがおろそかになってしまったり・・・といった事態になりがちです。周囲が「使えない奴」と思うのは、実はミスをしたことよりも、その時の態度やその後のフォローの仕方に起因することは多いのではないでしょうか。
 実際、もしSさんが逆の立場だったとしたら、ミスをした同僚をすぐに使えない奴と思うでしょうか?それよりも、ミスをした時の態度や対処の仕方で、判断をするのではないでしょうか?
後味の悪さやバツの悪さを避けるよりも、まずはそこで出来ることを一生懸命行動で示すことが大切です。自分の後味の悪さを避けることだけに意識が向いてしまうと、本当に大切な配慮が抜け落ちてしまうからです。その上で、また同じ思いをしたくないと思ったなら、自分のミスの原因を考え、同じ過ちを繰り返さないための工夫をするのです。
 仕事で評価されたいという気持ち自体は自然な欲求であり、人の評価を気にしないように努力するのは不毛な試みです。折角のエネルギーは、不安や嫌な気持ちを避けたり、やりくりすることに使うのではなく、仕事の仕方の試行錯誤に使うということですね。
 もう一つ、就職が出来ずにいる原因は、「はじかれてしまうに違いない」といった決めつけです。嫌な気持ちを二度と味わいたくないために、あらかじめ結果を決めつけて行動自体を避けてしまっているようですが、それは結局「ダメな自分」という嫌な気持ち強めることになってしまいます。不安や後味の悪さを避けることが、本当の意味での解決にはならないということですね。ビクビクしつつで良いので、どこに力を注いだらよいか?を考え、色々試してみて下さい。その試行錯誤の体験から、力の入れどころが分かってくると思います。
(久保田幹子)

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