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神経症を治す〜神経症(不安障害)の治療方法

森田療法 個々の症状の心構えと対策

症状に対する一般の心構え

高良武久著作集・白揚社

1・症状の本態を知ること

患者は自分の症状を、身体のある器官が、器質的に病変を起していると信じがちであるが、神経質症状は決してそんなものではなく、精神的からくりから起るものである。すなわち心困性神経症であるということを知らなければならぬ。注意が頭部に固着すると頭重感、頭内朦朧感(もうろうかん)などが起り、心臓に固着すると心悸亢進(しんきこうしん)発作を誘発しやしくなり、疲労感に固着すれば疲労先進に悩む。不安な注意をある感覚に執着させると、その感覚が鋭敏に感ぜられ、そうなるとますます注意をその方に向けるという精神と感覚の交互作用が行われ、その間自己暗示的にも病症が自覚されてゆくのである。

種々の強迫観念は、ある機会には何人にも起り得る不快観念あるいは不快感情緒を、自分のみに特別のもの、病的のもの、自己保存上不利のものとし、これを排斥し、否定せんとし、あるいはこれにより逃れんとする葛藤に他ならぬものであり、すべて精神的条件から起るものである。患者はこのことをよく自覚し、的外れの種々の物質的治療を一切止めなければならぬ。

2・症状はあるがままに任せる

症状が固定するともはや一朝一夕にこれを除くことはむづかしい。否、除こうとすればするほど追いかけられる。不眠症の人は眠ろうとするほど追いかけられるし、心悸亢進の人は安全のところに逃げるほど些細のことにも不安を感ずるようになり、対人恐怖の人は人前で平気になろうとするほど硬くなる。すべて症状をなくしよう、これから逃れようとし、細工をすればするほど、ますます葛藤がひどくなり、苦悩はつのるばかりである。ここのところをよく体認しなければならぬ。症状はあるがままに、今あるのが自分にとっては普通と心得て、恐ろしければびくびくはらはらのままに、苦しければ苦しいままに、素直に受けるがいい。

正受不受というのは、素直に純に受けると、受けないと同様の状態になるというほどの意味である。不眠症の人は強いて眠りを欲ばらず、眠らなければ仕方がない。眠りがあたえられれば受け取るという状態になれば自ら眠りの本能によって眠りに陥る。その他の症状も同様のことである。素直に不安苦痛と一体になるのだ。逃れようとせず不安に常住するのだ。あるがままというのは、苦痛があるからあるままに何もしないでいる。怠けたからあるがままに怠けるというのではない。種々の不安恐怖があるままに、そのままでそれをどうしようともせずに持ち耐えて、なすべきことはなすという態度である。

3・常に何かをしている生活

神経質症状は、注意が外界の事物に流れず、自己自身の心身の現象に固着している状態である。すなわち内向化である。それを外に転じようとしても、そう観念するだけでは何の役にも立たぬ。外向化の最善の方法は仕事をすることにある。症状はあるままに、初め易より難に進み、次第に自分にとって、無理と思われるくらいのこともやる。仕事もなるべく手足を動かしてやるようなことがいい。苦痛不安がなくなったら仕事をやるというのではなく、苦しみはあるものと心得て、そのまま常に何かやる。仕事は種々変化があっていい。変化が休養になるので特に休む必要はないのである。私は入院者には、室内外の掃除、養兎養鶏、野菜栽培、手工、習字等をするようにすすめている。

一体人は神経質症状のあるなしにかかわらず、仕事をせずに心の平安を保つことはできないようにつくられているのだ。仕事もせずに暢気(ちょうき)でいられるのは例外の人間であり、普通の人は、仕事をしなければ必ず自己本位の生活に堕して不幸な心境に陥る。不断の仕事によって人は外向性を馴致(くんち)し、また苦痛があっても、やればやれるという自信も体得し、次いで苦痛もうすらぐのである。不安苦痛のあるごとに仕事を休むということになれば、不安苦痛がますます恐ろしいものに感ぜられる。

4・先ず形を正しくすること

だらしない恰好をしていてしっかりした心になろうとしても出来ない。顔をしかめていて愉快な気分になろうとしても無理である。心をよくするにはまず形をよくすることである。喜怒哀楽の情緒は人としてあらざるを得ないから、あるがままに任せていいが、これをふしだらに、何の抑制もなく外に現すことは気分に支配されることであり、そこには何の鍛錬もなく、意志薄弱症になるばかりである。不安苦痛があって、それを人に訴えたり、表情に、身振りに、言葉に、態度に現わしておれば、外形にともなって心はますます軟弱になる。苦しくても不安であっても、形をしゃんとくずさず、耐えて当り前にやって外相を整えてゆけば、内相は自ら熟する。

5・気分本位はいけない

気分がよければ仕事をする、悪ければ何もしないというのでは結局怠け者になる、気分は天気のようなものと心得、悪ければ悪いままに、よければよいままに、そのままで何でもやれることをやる。やらずにやれないというのがよくない。また不安な気分では日常茶炊事も、普通生理的のことでも、何か異常なこと、病的のことのように思われる。あるいは対人恐怖などでは、卑屈な気分で、人が笑っても自分を笑っていると感じ、人が咳をしても自分をあてこすっていると感ずる。偶然のことでも何でも、自分に関係があるように解釈する。気分本位の生活では、そうなりやすいことをよく自覚して憶断(おくだん)をつつしむことである。

6・愚痴を云わぬ

愚痴を云っていると一時の気休めになるがかかる気休めをしていると、ますます症状に乗ぜられる。自分のわなに自分がかかってゆく。人は愚痴を云わぬだけでも強くなる。偉い人と云われる人は概して愚痴を云わないものである。愚痴を云わぬことは凡人にはむずかしいことであるが、それを止めることが出来れば、それ丈でも心は鍛錬される。

7・病気の中に逃げないこと

軽い風邪気味のとき、行きたくない会に出ようとすると、俄(にわか)に風邪が重いように感ぜられて、それにかこつけて会に行くのをやめる。しかし待望の映画でも見ようとなると、少し位の風邪は何の苦にもならない。人は、現実の苦渋をただ避けるのは良心に恥じるので、病気という口実を設けやすい。神経衰弱の人にことにその傾向がある。現実を避けているといよいよ現実は辛く思われて、病気はいよいよ重く感ぜられる。何事をするにも、「自分は病気だから」という態度でいると神経症は癒らない。

8・完全欲のとらわれ

仕事や勉強は遊びごとと違って、辛いのが普通であり、辛い中に真の喜びも生れるのである。神経質の人は欲が深く、仕事に当然ともなう辛さを感じないで、働きたいと思う。そうなるといよいよ辛さが嫌になる。最もコンディションのよかった時を標準にしていつでもそうでなければならぬとするから、現在はいつでも悪いということになる。人に接しても少しも硬くならないで、読書をするにも少しも雑念も湧かず倦怠も覚えず、頭はいつも爽(さわや)かで、気分はいつも朗(ほがら)かでなどと完全を望むから、現実にいつも裏切られている。そうでありたいという理想を、そうでなければならぬとするから、不完全な現実と常に矛盾してしまう。

9・自信ついて

神経質の人はよく劣等感を起す。自分が何かにつけて人に劣っていると思い、自信がない自信がないとこぼす。そうして何事も積極的にやろうとしない。自信が出来たらやろうという。何もやれない筈である。始めて水泳の稽古をするのに泳げる自信は何もいらぬ。自信なしでやるうちに泳げるようになって、自信は自ら生れるのである。

我々は多くのことを自信が出来てからやるのではない。自信なきままに、びくびくはらはらで我慢してやるのだ。自信はその中に生れる。自信が出来たら何でもやろうというのは、水泳がうまく出来るなら、初めて水に入ろうというようなもので、撞着(とうちゃく)のはなはだしいものである。やろうかやるまいかと迷うような場合には自信なしでやるがいい。全く出来ないことには人は迷いもしない。やろうかやるまいかと迷うようなときは、努力してやれば大抵出来ることである。かくして努力してやれば何でもやれる自信、あたって砕けるという気合も生れる。石橋を叩いても渡らぬという完全欲のとらわれからは、実行によってのみ解放される。

10・自覚と往生

法然、親鸞のごとき人々は、悟りを開こうとして万巻の書も読破し、修業に修業を重ねたが、ついに煩悩を脱することが出来ず、煩悩をなくしようとする一切のはからいの無益なることを身をもって体験し、ついに仏に一切を任せるというところで心境が開けた。すなわち往生である。

必ずしも仏に任せると云わなくていい。事実を正しく認める。そうして事実に随順してゆくのである。我々はいかに善を求めようとしても、内面においては、様々の人に云えない妄念、悪念、邪念、あるいは突飛な考えや荒唐無稽(こうとうむけい)な思いが右往左往する。このことは何人も聖人ならぬ限り我胸に問えば直ちに自覚されることである。あるいはまたいかに活動の慾望はあるにしても、一面難を避けてやすきにつこうとする心、時として倦怠、疲労を覚えないわけにゆかない。進んで向上せんとする心の反面には様々の恐怖、不安、狐疑(こぎ)もないわけにゆかない。記憶力、理解力、意志力、喜怒哀楽、すべて思い通りにはならぬ。

身体のことにしても、時として重病を免れず、必ずしも病気というほどでなくても、身体の違和感、頭部、胸部、腹部その他の異常感覚等を覚えることは我々の日常経験することである。理想は進んで際限がないからいつまでも達成されず、止むことなき欲望の前には完全はどこにもない。諸行は本来無常であり、人は煩悩の器であるというのは、ただの観念ではなく厳たる事実である。この我々の内外の事実を正認し自覚すれば我々は不安を棲家(すみか)とし、そこに常住するより他はなく、かくして安心立命はどこにもないことを悟るのであるが、安心立命のないことを悟ることが、すなわち安心立命であるという奥義に参ずることも出来るはずである。

自覚は前に述べたような、我々の生存上不利と思われる点を、正しく認めること以外に、さらにもっと積極的な方面、すなわち、我々がいかに様々の苦患を持つにしても、我々の根本に厳として止むことのない向上欲の存在することを認めるという点にもある。苦患すなわち、神経質症状を通して我々の本心たる向上欲を自覚することが出来る。疾病恐怖があるのは、我々が健康を望むためであるが、健康を望むのは要するに我々が大に活動し大に発展していくために健康が大切であるからであり、本心はそこにある。活動欲、発展欲、向上欲が根本であって、疾病恐怖はそこから出た枝葉に過ぎないのであるが、疾病恐怖の人は本末を顛倒(てんとう)して、あたかも自分は病気にかからないために生存しているような観を呈している。自覚がないためである。

対人恐怖は、自分が他人よりよく見られ、重んぜられ、好かれたい心の影である。この心なくして神経質の対人恐怖は起り得ないことを自覚すれば、当然いたずらに恐怖のみをなくしようとするはからいを捨てて、人に好かれるように、工夫し努力していくのが本道であると悟るはずである。他の症状に関してもすべて同様のことが云われ得る。枝葉にかかわらず、枝葉の症状はありながら、そのままにしてその本心に乗って向上発展の道を進むのが神経質者の取るべき道である。往生というのは単なるあきらめではない。必然的の事実には素直に服従して、現在の状態でなすことをなしていくのである。私はこれに名づけて積極的服従という。

11・小児病的態度

物事にはただちに解決できることがある。机上に汚れがあればただちにそれを拭いて解決することができる。しかし心に受けた印象は、ことによっては、ただちにこれを消し去ることが不可能である。最も卑近(ひきん)な例を取るならば、百円を失って惜しむ心はそう長くは続くまいが、千円になるとかなり長くつづくし、一万円になれば容易に忘れることが出来ないというようなもので、理屈で解決できたようでも感情が承知しないのである。未練は不快だから、惜しむ心をただちになくしようとすれば、不可能を可能にするようなもので、かなわぬ戦い、すなわち葛藤になる。未練は未練のままにどうしようともせず、進んで日常の仕事につとめてゆくうちに、いつの問にか未練はうすれてついになくなっている。あるとしても切実な感情をともなわない。

感情の興奮は、快であれ不快であれ、そのままにしておけば波をうちながら、時と共にうすれる。それが原則である。人は年をとり経験を積むにしたがって自らこの事実を知り、賢くも苦痛不快を時の経過に任せておく。しかるにある人々は現在の苦痛から今即刻に逃れようとして、さまざまのはからいごとをなし、かえって感情の自然の経過を妨げてしまう。特に神経質の人々はそうである。不快苦痛を今ただちになくしようとして焦慮して様々の手段をろうし、必然に逆らっているのである。あるがままにして時に任せることを知らない。親に子に死なれるというような悲惨事に逢っても、素直に悲しみつつ、欺きつつ日常の仕事に励みゆくうちに、例えそれを忘れることはできないにしても、一年二年、時の経つにつれて当時の深刻な情緒は次第にうすれるのである。いわんや日常の些事における不快不安のごときものは、そのままにして自然の経過に任せておけば、多くは数日にして消失するのである。

忘れよう忘れようと念ずれば、すなわちそのことに執着するということになる。あたかも雑音恐怖の人が音を気にすまいとすればするほど、はては時計のかちかちの音にも心を乱されるようなものである。聞えるものは素直に聞きながら仕事をしていると、いつの間にか電車の騒音も何も聞えなくなる。ただちに解決し得ないことを即刻清算しようとする小児病的態度を改めなければならぬ。

12・入院錬成(れんせい)治療

私はいわゆる神経衰弱患者すなわち神経質症状に悩む人々を預って治療している。かかる人々はついには自ら癒り得る人もあるに違いないが、入院治療法によって短日月に癒り得るのである。患者はたとえ治療の原理はわかっていても、自宅においては自由放慢になりやすく実行がはなはだ不徹底なるを免れないから、心構えも容易にでき難いのである。すでに機の熟した人は私らの著書を見ただけで開悟する人もあるが、すべての人にかかる開悟を望むことはできない。治療の様式は神経質療法の偉大な創始者、故森田正馬博士の方法を最善とする。森田博士は慈恵医大に放て精神神経科の教援であり、私はその後を受けて同じく神経症治療を生涯の仕事としているが、先生の業績の大なりしことは、我々ごとき凡才の者でもその方式によって幾多の悩める人々を救い得ることによってますます痛感させられるところである。

まず入院の始め四、五日から一週間絶対臥褥に入る。この期間は、食事、両便、洗面の他全く無為の生活であり、患者は次第に無聊(むりょう)退屈に苦しみ、種々の疑問は湧出し、馬鹿々々しくもなり、また一面起床して活動せんとの欲望も起る。その間種々の観念は自然に湧出するままに、苦痛煩悶もあるがままにして反抗排斥せずになり行きに任せる。起床後は軽い作業より次第に重作業に移る。起床後は毎日日誌を誌して提出させ、私がこれについて註を入れ、また毎日昼間あるいは夜に皆を集め一般的に、あるいは個人の症状について指導する。指導の大体の方針は前に述べたようなことであるが、なるべく患者の生活にそくして具体的に指導するのである。

この方針によって、数年あるいは十数年を経たものでも、早きは三〇日長きは七〇日位で全治あるいは著しく軽快するのである。全治すれば、悟達の一階段を経たものであるから、単に症状が治癒したに止まらず、一般に活動的となり、積極性を増し、錬成された人物になるのが普通である。原則としては私は神経質症のものにはこの特殊教育治療を主として、薬物的あるいは理学的療法を用いない。ただ分裂病的であるとか抑欝病の場合には、電気衝撃療法、持続睡眠療法その他を用い、軽快すると共に錬成教育を施すのである。

抑欝病は、神経質症状によく似ているものがあり、感情抑鬱、興味喪失、無気力、行動緩慢、睡眠障碍(しょうがい)等を主とするものであり、神経質との鑑別は専門家にまつべきものである。この病気は、衝撃療法あるいは持続睡眠療法に精神療法を加味すれば多くは一ケ月内外で全治する。自然のなり行きに任せても一年以上つづくものはほとんどない。

この点からいうと抑欝病はいかに重症でも好都合であるが、神経質の治療は物質療法では容易にはかどらず、癒す方も指導に苦労するのであるが、その代り、一度根本的に悟達すれは、一生再発することはないのである。

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