神経症の症状を引き起こす仕組みのひとつとして、森田療法では「精神交互作用」と呼ばれるからくりが挙げられています。「精神交互作用」とは、ある感覚に対して、過度に注意が集中すると、その感覚はより一層鋭敏になり、その感覚が固着される。つまりその感覚と注意が相互に影響しあってますますその感覚が拡大される精神過程を示したものです。
これは、いわゆる「注意と感覚の悪循環」という作用で、認知心理学などでも類似の説明がなされている現象です。
例えば、疲れや寝不足などから心気亢進を起こす事がありますが、その場合、神経質な性格の人なら、心臓が異常ではないかという不安をもちます。
そしてその事が気になりだすと、自律神経がさらに緊張し、心臓もよけいにドキドキしてきます。するとさらに心臓に注意が集中して、ますます、心悸亢進が激しくなる悪循環が生まれる事になります。
あるがままというと、自然なとか、自然体でとか、そのままとか、いう意味に捉えがちですが、森田がいう「あるがまま」というのは、少し意味が異なります。
つまり、森田療法の「あるがまま」とは、気分や感情にとらわれず、今自分がやるべき事を実行していく、目的本位の姿勢を示しています。
「今日は気分が悪いから、気分が晴れてからにしよう」とか、「不安だから会社や学校に行けない」「この不安さえなければ良いのに」など、神経症者が陥りがちな逃避行動やその姿勢を戒めたものです。
すなわち、気分や感情は、天気と同じように自分でコントロールできるものではなく、時間が経つと自然に落ち着いてくるものである。故に神経症者は、不安な感情や症状はそのままにして、今日すべき仕事や目の前にある家事などを気分や感情にとらわれずに、目的本位で行う。これがあるがままの姿勢だと説明したのです。
森田正馬は、自分の着眼点は、感情の上にあって、論理や意識などに重きをおかないと言っています。そこで5つの感情に関する法則を述べています。
思想の矛盾とは神経症者にある「かくあるべし」という理想と、現実の自分との矛盾(=ギャップ)を意味するもので、誤った考え方を意味します。
森田療法によると、我々の主観と客観、感情と知識、理解と体得などは、良く似ているようで、実際はしばしば矛盾する(異なる)ものであると言います。
例えば、今ここに心臓麻痺恐怖の人がいるとします。医者は心臓は大丈夫だという。これは客観的事実である。しかし本人はやはり怖い。これは主観的事実です。このとき患者は大丈夫だという客観的事実と、自分は怖がる者であるという主観的事実とを認めなければならないのですが、この事実を認めようとしないのが、思想の矛盾というわけです。
また感情と知識との関係についても、例えば毛虫を見て、私たちはこれを不快に感じ、嫌悪し怖がることは「感情の事実」である。しかし毛虫が毒気を吐くものでもなく、人に飛びつくものでない事は、私たちの知識によって知ることができます。毛虫を見てたちまち目を閉じて逃げ出す人は、感情に支配される人です。必要に応じて、これに近づき、これを駆除する事ができるのは、理知の力である。すなわち不快のままに、毛虫に近づくことができるのでは、感情と知識の両立であって、あるがままの当然の行動であり、正しき精神の態度である。
これに反して、もし毛虫に対してまず嫌悪の感情を排除し、好感を起こしてその後で毛虫に近づこうと努力するのなら、理屈で感情を押さえつけようとする行為であり、これが思想の矛盾につながります。
同じように、理解とは推理によって判断する抽象的な知識であるが、体得とは、みずから実行、体験して、その後に得た自覚の事を言います。すなわち、体得とは体験によって会得してのちに生じるものであって、たとえば食べなければ、その味を知ることができないのと同様である。
恐怖はそこから逃れようとあせると、恐怖心はますますつのってくるものです。
例えば、恐ろしいままで歩いていると、恐怖心はそれだけで済みますが、恐ろしさのあまり走り出すと、さらに恐怖心は大きくなります。
したがって、恐怖心が生じれば、逃げずに踏みとどまり、むしろ恐怖の中に突入していく事が重要だという事です。
すなわち恐怖突入とは、不安の対象やそこから生じる葛藤、または不安発作などに対する予期恐怖など、神経症者の不安に感じる事をそのまま身をもって正面から対峙させて、克服させる治療方法です。
例えば赤面恐怖で電車に乗れない患者なら「電車に乗って他人の前で赤面をさらけだす」という行為を勇気を持って実行させるという方法です。
この場合、軽い恐怖の対象から徐々に最も恐怖する対象へとだんだん訓練し、慣れさせるのが一般的な治療法です。神経症者に共通するのは、怖いと思っていた対象や行動、現象等は一旦、その中に飛び込んでしまえば(=恐怖突入)自然に消え、これまで容易にできなかった事が出来た事に対して大きな喜びを感じ、次第に勇気を増していくのです。
つまり、その行動なり場面なりに飛び込むまでが実は怖い(不安)のであって、飛び込んでしまえば、その対象は自然と消滅するのです。
生の欲望とは、森田療法の基本的な考え方の一つで、人間が絶えず向上・発展しようと志向する欲望の事をさします。
人間には本来、より良く生きたい、人に認められたい、偉くなりたい、健康でいたい等の向上・発展意欲があります。これらの欲望はいわば、プラスの精神エネルギーであり、健康な人なら誰でも普通に持っているものです。
しかしこの欲望の裏には、実は、死にたくない、人に認められなかったらどうしよう、偉くなれなかったらどうしよう、病気になるのではないかなど、不安や恐怖といったマイナスの精神エネルギーも強く存在しています。
何故なら、健康でありたいと思うからこそ、病気になったらどうしようと恐れるわけで、強い欲望があるからこそ、その不安や恐怖も大きくなるからです。
つまり、人間の心は、生の欲望と死の恐怖(=不安や恐怖心)が表裏一体のものであるという事です。
そうであるなら、生の欲望と死の恐怖のどちらも、人間性の事実としてそのまま受容する事が自然なあり方だと森田療法ではとらえます。
森田療法では、この不安や恐怖心を取り除こうとする事はやめて、目的や行動を通じて、人間本来の建設的なエネルギー(=生の欲望)を発揮させようという治療法です。